本文へスキップします。

アクセシビリティ

  • 文字サイズ
    • 標準
    • 特大
  • 背景色

承認:エディタ

承認:エディタ

※検索結果は翻訳されません。ご了承ください

【全】アクセスカウンター

92373144

コンテンツ

品川ゆかりの人物

(2021.03.24更新)

品川区にゆかりのある人物を紹介します。
 こちらのページは品川区ホームページ『品川人物伝』に掲載されている33名を中心に取り上げています。『品川人物伝』には実際の写真や詳細な情報が掲載されていますので、あわせてご覧ください。

ア行 カ行 サ行 タ行 ナ行 ハ行 マ行 ヤ行 ラ行 ワ行


ア行

池波正太郎(いけなみしょうたろう)1923-1990
 
池波正太郎は、1923年1月25日、大雪の日に浅草区聖天町で父・富治郎、母・鈴の長男として生まれました。小学校時代は、挿絵画家になることを夢見るほど絵を描くことが好きな少年で、後にスケッチなどの作品を残しています。
 昭和17年頃、「婦人画報」の朗読文学欄に投稿を始めるようになり、投稿した短編4篇中、「兄の帰還」が入選となったほか、3篇が選外佳作となり、文章を書く楽しみを知るようになります。
 1954年、長谷川伸を中心に結成された新鷹会(しんようかい)の同人誌『大衆文芸』に小説としての処女作『厨房(キッチン)にて』を発表。 執筆活動に専念するようになります。
 そして、信濃松代藩真田家のお家騒動を題材にした『恩田木工(おんだもく)』が、早くも昭和31年度下半期の直木賞候補となります。この頃から、文芸雑誌等で数多くの作品を執筆、1959年、6度目の候補作品となった『錯乱』で直木賞を受賞しました。
 火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)長官、長谷川平蔵を主人公とした「鬼平犯科帳」は1968年から、「剣客商売」、「仕掛人・藤枝梅安」は47年から、書き始められています。この3作品はシリーズ化され、たいへんな人気を博し、繰り返し映画化やテレビ放映されています。
 時代小説家として不動の地位を築いた正太郎は昭和27年、品川区内の荏原で暮らし始め、亡くなるまでこの地に自宅を構えました。また、日課の散歩は、近所にある武蔵小山商店街を端から端まで歩き、駅前の書店に必ず立ち寄るといったコースでした。

品川区ホームページ『品川人物伝 池波正太郎(その1)』はこちら
品川区ホームページ『品川人物伝 池波正太郎(その2)』はこちら


伊豆長八(いずのちょうはち)1815-1889
 
伊豆長八、本名、入江長八は、1815年現在の静岡県賀茂郡松崎町の貧しい農家に生まれました。7歳の時、近くの浄感寺の私塾で読み書きを学び、12歳の時、地元で左官の棟梁をしていた関仁助のもとへ年季奉公に出され、数年のうちに、一人前の左官職人になります。
 1841年、長八が27歳の時、火事で焼失した日本橋茅場町にある薬師堂が再建されることとなり、その鏝絵細工を任されることになりました。左右の御拝柱(ごはいばしら)に制作した『のぼり龍』、『くだり龍』は一躍人々の評判となり、長八の名声を高めました。江戸が東京となり明治の世になっても、長八の制作意欲は衰えることがなく、61歳から66歳頃の作品が最も多いといわれ、亡くなる年まで制作を続けました。
 品川区には、品川区指定文化財となっている寄木神社の『鏝絵 天細女命功績図』のほか、善福寺本堂の軒下漆喰壁にねりあげられた竜の図柄の細工が残っています。

品川区ホームページ『品川人物伝 伊豆長八』はこちら


磯村英一(いそむらえいいち)1903-1997
 
磯村英一は1903年、東京市芝区三田(現・港区)に生まれました。母親は『報知新聞』記者をつとめ“ルビつき記者”と呼ばれた磯村春子です。荏原郡品川町の御殿山(現・品川区北品川)で育ち、品川尋常小学校(現・品川区立品川学園)を卒業。小学校6年の時、父が事業に失敗し、御殿山の小さな借家に転居しました。東京外国語学校(現・東京外国語大学)を経て、1923年に東京帝国大学文学部社会学科に進みます。
 東大では震災後、社会学科の指導教授戸田貞三らが本所区柳島(現・墨田区)に「東京帝国大学セツルメント」を組織し、活動に参加する傍ら、生活のため東京市社会局でアルバイトを続けます。
 母親の影響で新聞記者志望でしたが、弟妹のため安定した収入を得る必要から正式に東京市に就職し、社会局で各種の社会調査に従事します。その一方、「三火会」と名付けた社会事業の研究グループを組織し、論客の一人として社会事業に関する論文を多く発表します。
 1951年、東京都立大学に転職。都立大学時代にスラムや盛り場などの社会調査を進め、磯村の都市論が体系化されていきます。
 英一はまた、同和対策審議会等を通じて同和問題にも関わり続け、1997年に94歳で亡くなる直前まで、政府の外郭団体である人権教育啓発推進センターの理事長を務めました。

板垣退助(いたがきたいすけ)1837-1919
 
板垣退助は1837年、土佐藩士・乾正成の長男として現在の高知県高知市に生まれました。25歳の時、前藩主で藩の実権を握る山内容堂の側用人となり、藩政の中核を担います。
 1874年には江藤新平・後藤象二郎らとともに、愛国公党を組織し民撰議院設立建白書を政府に提出します。また、高知に立志社を創立し自由民権運動の先頭に立って活動します。
 1900年、伊藤博文を総裁とする立憲政友会が結成され、政党の再編が行われる中、板垣は政界から引退し社会事業に尽力する晩年を送りました。
 墓所は品川神社(北品川3-7-15)参道の階段または坂を登り、社殿の右側から裏手へ回った先にあります。

品川区ホームページ『品川人物伝 板垣退助』はこちら


伊東深水(いとうしんすい)1898-1972
 伊東深水は1898年、東京市深川区西森下町に生まれました。
 水彩画家・丸山晩霞の弟子、吉川恭平に出会ったことから、水彩画を習い始めることとなります。
 1912年、桜の木の下で荷馬車を止めて休む青年と二人の幼児を描いた作品『のどか』が第十二回巽画会(たつみがかい)展で初入選、またその翌年には『無花果のかげ』が入賞しました。
 美人画で名を馳せた深水は、自らの使命は女性を描いてその時代の風俗を後世に伝えることだと感じていましたが、肖像画のほか花鳥や風景画の制作も試み、多くの作品を残しています。
 上大崎の隆崇院本堂の天井には、中央に深水の『牡丹唐獅子図(ぼたんからじしず)』、周囲に深水一門によって花の絵が描かれています。

品川区ホームページ『品川人物伝 伊東深水』はこちら


伊藤博文(いとうひろぶみ)1841-1909
 
伊藤博文は、1841年、現在の山口県光市に、小作農の子として生まれました。父が足軽の伊藤家の養子となったため、萩城下に移り住みます。
 1857年、17歳の時に吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)に学び、やがて尊皇攘夷運動に身を投じます。
 明治維新後は、政府の要職を務め、明治15年(1882年)にはヨーロッパに渡って憲法や政治制度などの調査を行いました。その成果をもとに内閣制度や大日本帝国憲法の制定など、近代日本の政治制度の基礎を築き、1885年初代の内閣総理大臣に就任しました。
 別邸が現在の品川区大井3丁目付近にあったことから、西大井6丁目には墓所があり、毎年文化財ウィークになると数日限定で公開しています。

品川区ホームページ『品川人物伝 伊藤博文』はこちら


井上勝(いのうえまさる)1843-1910
 井上勝は1843年、長州藩士・井上勝行(かつゆき)の第3子として現在の山口県萩市に生まれました。イギリスで鉱山技術や鉄道技術などを学び、国内の鉄道敷設に尽力し、退官後は汽車製造会社を創設するなど一生を鉄道に捧げました。遺骨は死後もなお鉄道を見守っていたいという本人の意向に従い、東海道線と山手線に挟まれた東海寺大山墓地の一角に葬られました。

品川区ホームページ『品川人物伝 井上勝』はこちら


井上靖(いのうえやすし)1907-1991
 井上靖は、1907年父隼雄、母やえの長男として、軍医であった父の赴任先、北海道上川郡旭川町に生まれました。
 高校は金沢の第四高等学校(現 金沢大学)に入学。入部した柔道部では、主将として活躍し、インターハイにも出場しています。卒業後は、九州帝国大学中退を経て京都帝国大学哲学科に入学し、小説を書いては雑誌などに応募するようになります。そうするうちに、『サンデー毎日』の懸賞小説に『初恋物語』が入選しました。
 大学卒業後、大阪毎日新聞社に入社し、40歳の時、小説『闘牛』を執筆しました。 そして、43歳の時に、『闘牛』で第22回芥川賞を授賞します。授賞の知らせは、前年から家族と一緒に住んでいた西大井1丁目の自宅で聞きました。
 授賞の翌年には新聞社を退社し、作家を生業とする覚悟を決め、雑誌への連載もスタートさせるなど数々の作品を世に出していきます。

品川区ホームページ『品川人物伝 井上靖』はこちら


江見水蔭(えみすいいん)1869-1934
 
本名、江見忠功、1869年岡山の池田家家臣の家に生まれました。1873年、12歳で軍人を志して上京。勉学には励まず、小説を読んだり絵を描いたり、寄席や芝居通いに耽ってしまい、やがて作家を志すようになります。
 尾崎紅葉らの文学結社「硯友社」の同人として活躍し、詩歌・俳句・戯曲・冒険小説・紀行文など多数の作品を残しています。
 遺跡の発掘にも興味を持ち、大井の権現台貝塚(ごんげんだいかいづか)の発掘を行い、遺跡探訪や発掘の記録を多数残しています。
 品川に住み始めたのは1900年のことで、品川で何回かの転居があったものの、松山で客死するまで品川で暮らしました。

品川区ホームページ『品川人物伝 江見水蔭』はこちら


折口信夫(おりぐちしのぶ)1887-1953
 折口信夫は、1887年大阪府西成郡木津村に生まれました。 中学の国語科教師から聞いた『万葉集』や古代神話がその後の信夫に影響を与えます。また、自作の短歌を『新小説』などの雑誌に投稿し、歌人としても活躍します。
 大学時代には考古学や人類学への関心を高め、大学卒業後、大阪府立今宮中学校の嘱託教員の職に就き、1914年まで教鞭をとりました。
 1916年、『万葉集』の口語訳を始めて、翌年にかけて、最初の著書である国文口訳叢書(こうやくそうしょ)『万葉集』全3巻を刊行します。この時期、信夫は柳田との交流を深め、その研究に接することで、民俗学へ傾倒していきます。
 昭和3年、住居を西大井3丁目に移し、以後、死去するまでの25年間、研究活動の最も充実した時期をこの地で過ごしました。
 昭和4年にはそれまでの研究成果をまとめた最初の論文集『古代研究』の「民俗学篇1」と「国文学篇」を刊行し、後に「折口学」とも呼ばれる独自の学問体系が形作られていきます。  

品川区ホームページ『品川人物伝 折口信夫(釈迢空)』はこちら


尾崎行雄(おざきゆきお)1858-1954

 尾崎行雄は1858年、尾崎行正の長男として神奈川県津久井町に生まれました。
 17歳の時、福沢諭吉の慶応義塾に入塾しますが、中途で退学し工学寮・現在の東京大学工学部に学びます。
 1903年から1912年までは東京市長を務め、さらに、大正時代の憲政擁護運動ではその先頭に立って行動し、終始、憲法に基づく議会政治、政党政治のために尽くしました。
 品川での生活は約27年間に及びます。娘たちと一緒に自宅の周辺をよく散策し、近隣に住む人々とも交流を持ち慕われており、葬儀にはたくさんの会葬者がかけつけました。

品川区ホームページ『品川人物伝 尾崎行雄』はこちら

先頭に戻る


カ行

賀茂真淵(かものまぶち)1697-1769
 
賀茂真淵は、1697年3月、遠江国敷智郡(とおとうみのくにふちぐん)浜松庄伊場村(はままつしょういばむら)に岡部政信(おかべまさのぶ)の三男として生まれました。
 30歳を過ぎた頃から、時折上京し、伏見の荷田春満(かだのあずままろ)の下で学ぶようになり、37歳の時に京都に腰を落ち着けて古典や古語の研究をはじめます。 『万葉集』を研究した『万葉解(まんようかい)』、『万葉考(まんようこう)』は代表的な著書です。
 墓所は北品川4丁目の東海寺大山墓地内にあり、国の指定史跡となっています。墓前には、門下生である橘千蔭の撰文の碑などがあります。

品川区ホームページ『品川人物伝 賀茂真淵』はこちら


河合栄治郎(かわいえいじろう)1891-1944
 
河合栄治郎は1891年、東京府南足立郡千住(現在の足立区千住)に生まれました。東京帝国大学法科大学在学中に、農商務省編纂による『職工事情』に収められた機織工女や職工への虐待・蹂躙の実態を読み衝撃を受けます。
 労働問題に目を見開かれた栄治郎は卒業後、農商務省に入省しますが、1919年10月に辞職。労働組合の公認を中心とする進歩的な労働政策案が、保守的な農商務大臣らに受け容れられなかったことが理由でした。
 1920年6月、栄治郎は母校の東京帝国大学経済学部助教授に任じられ、同年、荏原郡大井町の大井庚塚町(現在の品川区大井7丁目)に居を構えます。
 晩年の栄治郎に対しては右翼・文部省・軍部の圧迫が激しく、1939年の「平賀粛学(河合事件)」により大学を追われ、発禁処分を受けた著書についても起訴されます。著作活動を禁じられながらも研究を進め、また天成の教育者であった栄治郎は、自宅に門下生らが訪ねてくれば相談に応じていました。
 53年という、決して長いとは言えない栄治郎の生涯は、個人の自由が制限されていた戦前日本社会にあって様々な非難・圧迫を受けながら、自己の信念を貫き通した歩みでした。

久米邦武(くめくにたけ)1839-1931
 
邦武は、1839年佐賀藩士であった父親邦郷(くにさと)のもとに生まれ、幼名を泰次郎(たいじろう)といいました。教育熱心な家庭環境であったことから、邦武は幼い頃より、たくさんの書物に囲まれて育ちます。
 明治4年から6年にかけて、大使岩倉具視(ともみ)の欧米視察に随行して、アメリカを始め12カ国をまわる機会を得ます。帰国後には、「特命全権大使米欧回覧実記」という書名で、長きにわたるその旅程を、報告書としてつづりました。
 明治32年からは友人大隈重信の招きもあり、大隈が設立した東京専門学校(現早稲田大学)の文学部で20年ほど国史を教え、歴史家としての道を究めました。
 かつて邸宅があった品川区上大崎の敷地には、現在、久米美術館が建っており、邦武の長男で画家の桂一郎の作品と一緒に邦武の原稿や著書が、収められています。

品川区ホームページ『品川人物伝 久米邦武』はこちら


児島惟謙(こじまいけん)1837-1908
 
惟謙は1837年、現在の愛媛県宇和島市に、宇和島藩士・金子惟彬の次男として生まれました。
 1857年20歳のとき、藩の家老である梶田長門に仕え、文武の修業に専念するようになります。とくに剣術でその才能が認められ、藩内各所から剣道教授として招聘されるようになりました。
 1871年には司法省に出仕するようになり、司法官としての道を歩みます。大津事件で日本政府の干渉を断固としてはねのけ、一般の謀殺未遂罪により無期懲役の判決を下したことが有名です。
 その後、現在の品川区大井六丁目に邸宅を構え、地元の名士・財界人とも親交を深めました。
 1908年72歳で亡くなり、品川区南品川にあります海晏寺(かいあんじ)に葬られました。

品川区ホームページ『品川人物伝 児島惟謙』はこちら

先頭に戻る


サ行

坂口安吾(さかぐちあんご)1906-1955
 
坂口安吾、本名、炳五(へいご)は1906年、新潟県新潟市に生まれました。安吾は1922年に新潟県立新潟中学校を中退。上京後、長兄夫妻らと同居し、豊山中学校(現・日大豊山高校)三年に編入学します。
 荏原郡大井町字元芝に移ったのは1925年初頭の頃だと言われています。2か月~3ヶ月の間、荏原郡大井町字元芝で過ごし、同年4月、代用教員として荏原尋常高等小学校下北沢分教場(現・世田谷区立代沢小学校)に赴任すべく大井町を離れました。
 敗戦直後の1946年に発表した『堕落論』で注目され、戦後文学の旗手として一躍文壇の寵児となりました。

笹本恒子(ささもとつねこ)1914~
 
笹本恒子は1914年、荏原郡大崎町大字上大崎字長者丸(現・品川区上大崎)に生まれました。順心高等女学校卒業後、大妻技芸学校高等家政科に入学したものの、画家への道を断ちがたく中退します。
 美大志望者が集まる絵画研究所に通ったり、東京日日新聞コラムのカットを描いたりしていましたが、財団法人写真協会を紹介され、フォトジャーナリズムの世界に目を見開かれます。1940年に入社し、日本で最初の女性報道写真家として活動を開始しました。
 戦後は、『千葉新聞』記者、『婦人民主新聞』嘱託を経てフリーとなり、1950年、初の個展「生きたニュールック写真展」を開催します。
 その後、一時写真の世界から離れたものの、1985年、71歳の時に開催した写真展「昭和を彩った人たち」を機に、写真家として再出発しました。
 2016年、102歳で写真界のアカデミー賞といわれる「ルーシー・アワード賞」を受賞。公益社団法人日本写真家協会にて「時代を捉える鮮明な眼差しとヒューマニズムに裏打ちされた作品世界」を引き継ぐ写真家への活動支援をうたった「笹本恒子写真賞」を創設されました。

公益社団法人日本写真家協会ホームぺージ 「笹本恒子写真賞」


渋川春海(しぶかわはるみ)1639-1715
 
春海は、1639年の初代安井算哲の長男として京都に生まれ、幼名を六蔵といいました。後に、祖先が河内国渋川郡を領していたことから、家名を渋川と改め、渋川春海になりました。
 春海は幼少から算術にも長けており、数学を学んでいましたが、暦学や天文学には特に強い関心を持つようになりました。天体位置観測をするための渾天儀(こんてんぎ)を作り、何年にもわたって、太陽や月、星の観測や測定を行っています。その熱心な探究心は貞享暦と呼ばれる、新しい暦の完成へと導きました。
 墓所は品川区北品川にある東海寺大山墓地内にあり、品川区指定の史跡になっています。

品川区ホームページ『品川人物伝 渋川春海』はこちら


ジョサイア・コンドル(Josaiah Conder じょさいあこんどる)1852-1920
 
ジョサイア・コンドルは、1852年9月、イギリス、ロンドンで銀行員の父のもとに生まれました。幼い時に父を亡くし、建築家をめざして建築事務所で修行しながら、美術学校に学びます。
 24歳の時にお雇い外国人教師として日本に招聘され、工部大学校造家学科(現東京大学工学部建築学科)で教鞭をとることになりました。
 教鞭をとる一方、コンドルは実際に洋風建築の設計にもかかわります。西洋建築にその土地の文化を取り入れ、鹿鳴館やニコライ堂が代表的です。また、 旧鹿児島藩主の島津公爵邸として建築された、清泉女子大学の本館も彼の作品です。

品川区ホームページ『品川人物伝 ジョサイア・コンドル』はこちら


杉野芳子(すぎのよしこ)1892-1978

 杉野芳子は、1892年千葉県匝嵯郡に生まれました。
 千葉高等女学校卒業後、鉄道省に就職します。 鉄道省の後に3年間小学校教師として働き、大正2年、念願叶ってアメリカへ単身で渡ります。初めて目にした洋装は衝撃的でスカート履きのアメリカ女性の中では、芳子の袴姿は異質でした。しかし日本人体型に合う既製服もなく芳子は洋裁を習います。
 帰国後、現在の西新橋にドレスメーカー・スクールを開校、11月には品川区上大崎に移し、ドレスメーカー女学院とします。1935年には創立10周年を記念して、日比谷公会堂でファッションショーを開催します。これは日本人の手による日本初のショーで、大成功を収めました。
 和装が主流だった時代に洋装という新しい流れを作り、大きな功績を残し、服飾界に多くの人材を送り出してきたのです。
 JR目黒駅付近から杉野学園の校舎へ向かう道はドレスメーカー学院の名から、『ドレメ通り』と呼ばれています。

品川区ホームページ『品川人物伝 杉野芳子』はこちら

先頭に戻る


タ行

高木正年(たかぎまさとし)1857-1934
 
高木正年は、1856年細井半兵衛以年の三男として荏原郡南品川に生まれます。生家は老舗の質商で、父の半兵衛は南品川宿の宿場総代として宿場の発展に尽くしました。
 正年は幼いときから大変利発で、特に記憶力が抜群に優れており、 祖母の実家にあたる高木家の養子となり、跡を継ぎます。高木家は諸大名の御用達を務める裕福な家で、正年の養祖父にあたる高木市兵衛以孝は、趣味豊かで文筆に優れ春山と号し、博物学者としても知られています。
 本格的に政治と関わるようになったのは、1882年に25歳で東京都府会議員となってからです。
 大隈重信に師事し、立憲改進党の代議士として活躍を始めます。
 正年は、勅選議員への推薦や役職を固辞して、自らの家財を政治活動に投じるほど、終生一議員として庶民の側に立ち活動を続けました。
 墓所のある南品川1丁目の妙蓮寺には高木正年の胸像がその門下生などによって建立されています。

品川区ホームページ『品川人物伝 高木正年』はこちら


高村智恵子(たかむらちえこ)1886-1938
 
高村智恵子は1886年、福島県安達郡油井村(現在の二本松市油井)に生まれました。
 1903年創設間もない日本女子大学校に入学します。在学中の智恵子は自転車やテニスに興じることもある反面、口数が少なく孤独を好む性格であったといわれます。
 明治44年には、大学の同窓生であった平塚らいてうの頼みを受けて、わが国初の女流文学雑誌『青鞜(せいとう)』の表紙絵を手掛けました。  これをきっかけに青鞜社の女性たちとの交流がはじまり、智恵子も「新しい女」として世間の注目を集めました。
 智恵子は病みがちで昭和10年には自宅療養が困難となったため、南品川のゼームス坂病院に入院しました。
 ゼームス坂病院があった敷地の一角に、品川郷土の会によって、高村智恵子詩碑が建立されました。碑には光太郎直筆の「レモン哀歌」の詩が刻まれています。

品川区ホームページ『品川人物伝 高村智恵子』はこちら


沢庵和尚(たくあんおしょう)1573-1646
 
沢庵は1573年、但馬国出石(現在の兵庫県豊岡市)に、出石城主山名氏の家臣、秋庭綱典の二男として生まれました。
 10歳で出家して、初め浄土宗の唱念寺に入りましたが、14歳のとき臨済宗の宗鏡寺塔頭(すきょうじたっちゅう)の勝福寺に移り、希先西堂の弟子となりました。 その後、10年程、厳しい修行を積み、沢庵の道号を授かりました。
 1620年「紫衣事件(しえじけん)」が起こり、幕府批判の先頭に立ち、他の僧とともに幕府に対して抗弁書を提出します。 その結果、寛永6年(1629年)、沢庵は出羽国上山(現在の山形県上山市)に流罪となります。
 沢庵を尊敬する上山藩主土岐頼行は閑居を望む沢庵の意を汲んで、城外に庵(いおり)を与え庇護しました。沢庵はこの小庵を「春雨庵(はるさめあん)」と名付け、歌や茶事をたしなむ生活を送りました。
 墓所は北品川4丁目の東海寺大山墓地内にあり、国の指定史跡となっています。

品川区ホームページ『品川人物伝 沢庵和尚(その1)』はこちら
品川区ホームページ『品川人物伝 沢庵和尚(その2)』はこちら


津田梅子(つだうめこ)1864-1929
 
津田梅子は、1864年12月、父津田仙と母初子の次女として江戸牛込南町で生まれました。
 1871年、梅子は北海道開拓使の女子留学生の一員として、7歳で渡米します。 日本で最初の女子留学生であり、留学生5名の中で最年少でした。
 1882年梅子は長い留学生活を終えて帰国しますが、当時の日本では、身につけた知識を活かせるような職業もありませんでした。青山学院大学の前身である海岸女学校で英語を教えることになりますが、2か月ほどで辞めてしまいます。
 苦悩を抱えた日々が続く中、再びアメリカへの留学を決心し、1889年ブリンマーカレッジに入学します。 この留学経験は、日本人女性の置かれた状況を考える機会ともなり、日本の女子教育のために尽くす決意をさせることとなりました。
 1919年に北品川御殿山の新居に移り、療養をしながら晩年の10年を、この地で過ごしました。

品川区ホームページ『品川人物伝 津田梅子』はこちら


戸板康二(といたやすじ)1915-1993

 戸板康二は、父山口三郎、母ひさの長男として、1915年に東京市芝区三田(現在の港区芝)に生まれました。幼少の頃から、芝居好きの父親の影響で歌舞伎や芝居に親しみ、その他にも宝塚歌劇や新劇などを熱心に観賞する青年時代を送ります。
 1948年『わが歌舞伎』と翌年『丸本(まるほん)歌舞伎』を執筆し、戸川秋骨(とがわしゅうこつ)賞を受賞。1950年に日本演劇社の倒産に伴い、退社し独立すると、『歌舞伎への招待』を執筆、同書はロングセラーとなりました。
 江戸川乱歩の勧めで推理小説『車引(くるまびき)殺人事件』を乱歩編集の雑誌「宝石」に発表し、推理小説作家としてデビューを果たし、『團十郎切腹事件』で第42回直木賞を受賞しました。
 品川区には荏原7丁目に自宅を構え、50年余りを過ごしました。

品川区ホームページ『品川人物伝 戸板康二』はこちら

先頭に戻る


ハ行

萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)1886-1942
 
萩原朔太郎は1886年、現在の群馬県前橋市に生まれました。前橋中学に在学している頃から短歌をつくりはじめ、その後、北原白秋や室生犀星の詩に出会い、詩作を始めます。
 朔太郎が、妻子とともに前橋から上京して大井町の借家に住んだのは、1925年のことです。すでに『月に吠える』(1917年)、『青猫』(1923年)などの代表作を刊行していたとはいえ、大井町では原稿料収入もなく、市中をほっつき歩くことが多かったといいます。そのような生活の中で、「大井町」と題した作品を残しています。
 JR大井町駅前の大井町緑地児童遊園にある、二匹の猫「花子と太郎」像は、朔太郎が大井町に足跡を残したことにちなみ、詩集「青猫」をモチーフに設置されたものです。

長谷川伸(はせがわしん)1884-1963
 
長谷川伸(本名・伸二郎)は1884年3月15日、横浜で土木請負業を営む父、寅之助と母、かうの次男として生まれました。
 9歳の時、行き場の無くなった伸は品川の二日五日市村(ふつかいつかいちむら)(現在の南品川5丁目付近)で、住み込みで働く祖母の元に引き取られ、城南小学校の3年生に編入します。しかし、生活が苦しく自ら働かなければならなかった伸は、わずか半年程で城南小学校を退学し、働くようになります。そうした中でも、伸は読み捨てられた新聞を拾って、漢字を覚えるなど、独学で勉強を続けます。
 その後、文芸雑誌「新小説」に発表した短編小説『夜もすがら検校』で、菊地寛に認められ、本格的に執筆活動をするようになります。1928年には戯曲の名作『沓掛時次郎』を発表、1930年には『瞼の母』、翌年『一本刀土俵入』などの戯曲を次々と発表しました。

品川区ホームページ『品川人物伝 長谷川伸』はこちら


福沢諭吉(ふくざわゆきち)1835-1901
 福沢諭吉は、1834年12月、九州の中津藩(現在の大分県中津市)の下級武士(下士)であった父福沢百助と母順の次男として生まれました。
 諭吉は成長するにともない父親譲りの勉強好きになり、漢学を学ぶため塾に行き始め、兄三之助の一言をきっかけに、今度は長崎で蘭学を勉強することになります。
 1872年には、『学問のすゝめ』を出版し、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉が有名です。
 上大崎の墓地跡には、『福沢諭吉先生永眠之地』の記念碑が建っています。

品川区ホームページ『品川人物伝 福沢諭吉』はこちら


星新一(ほししんいち)1926-1997

 星新一は1926年9月6日、東京市本郷区駒込曙町に生まれました。父親は星製薬株式会社の創業者で「日本の製薬王」と言われた星一であり、星製薬が掲げていた「親切第一」の標語から「親一」と命名されました。
 1951年に父親が滞在先のロサンゼルスで客死すると間もなく社長に就任しますが、社長就任当時の星製薬は莫大な負債を抱え、ひどい経営状態にありました。若い新一が会社の再建を担えるはずもなく、1年半あまりで副社長に退きます。
 副社長となり暇をもてあます新一は、1957年5月に刊行された同人誌「宇宙塵」創刊号で随筆を、その第2号でSF小説「セキストラ」を発表します。この「セキストラ」が江戸川乱歩の目にとまり、作家としてのデビューを果たしました。筆名は新しいの「新」の字で「新一」としました。
 作家としてデビューした新一は、翌年、美人ロボットを主人公にした短編小説「ボッコちゃん」を執筆します。この作品は、一つのアイデアをもとに一般の短編小説よりさらに短く表現するもので、ショートショート形式といい、多くの作品を執筆しました。

品川区ホームページ『品川人物伝 星新一(その1)』はこちら
品川区ホームページ『品川人物伝 星新一(その2)』はこちら


星一(ほしはじめ)1873-1951

 星一は1873年、福島県磐城郡錦村に生まれました。県下で小学校の教員を務めながら上京のための資金を蓄え、1891年、神田の東京商業学校夜間部に入学します。
 日本の近代化に大きな影響を与えた啓蒙書、『西国立志編』を読みアメリカへの留学を志すようになり、1894年、卒業後に渡米し、サンフランシスコで働きながら学費を貯めます。
 帰国後、星は湿布薬「イヒチオール」の製造事業を始めます。事業は大成功し莫大な利益を生み出し、1910年、星製薬株式会社を設立し、西五反田に近代的な工場を建設。日本で初めてモルヒネの製造に成功し、その国産化を果たします。西五反田の工場跡地は現在、東京卸売センター(TOC)となっています。
 星一が1911年、星製薬社内に設けた教育部門は星製薬商業学校に発展。その後、星薬学専門学校を経て、1950年の星薬科大学の設立へと受け継がれました。

品川区ホームページ『品川人物伝 星一』はこちら


星野博美(ほしのひろみ)1966~

 星野博美は、1966年東京都品川区戸越銀座に生まれました。祖父の代から1997年まで、この地で町工場を営んでいました。写真家・橋口譲二のアシスタントを経て独立し、現在ではノンフィクション作家・写真家として活動しています。
 2000年『転がる香港に苔は生えない』で大宅壮一ノンフィクション賞、2011年『コンニャク屋漂流記』で読売文学賞「随筆・紀行賞」を受賞しました。
 今日まで『戸越銀座でつかまえて』、『今日はヒョウ柄を着る日』など数多くの作品を刊行しています。

先頭に戻る


 

マ行

前田司郎(まえだしろう)1977~
 
前田司郎は、1977年東京都品川区五反田に生まれました。 和光大学在学中に劇団「五反田団」を旗揚げし、現在にいたるまで作・演出を手がけています。
 2004年『家が遠い』で京都芸術センター舞台芸術賞、2008年『生きてるものはいないのか』で岸田國士戯曲賞受賞しました。また、2009年には『夏の水の半魚人』で三島由紀夫賞を受賞し、今日まで『ジ、エクストリーム、スキヤキ』、『異常探偵宇宙船』など数多くの作品を刊行しています。
益田孝(ますだたかし)1848-1938
 
益田孝は、1848年10月、佐渡の地役人であった益田鷹之助の長男に生まれました。幕臣に取り立てられた父の転勤にともない箱館(はこだて)(函館)に移り住んだ益田は、この地で英語を学び始めます。
 1876年3月には、三井物産会社設立にともない、社長となりました。三池炭鉱(みいけたんこう)の買い取りを成功させたことをはじめ、その能力を発揮し、巨大な総合商社になるまで成長させました。
 実業家としての成功を収めた益田は、鈍翁(どんのう)という号も持つ茶人の顔も持っており、御殿山にあった広大な邸宅内に茶室や陶器窯を設けて、お庭焼を楽しむなど風流な人物でした。
 日本や東洋の古美術全般にわたる膨大なコレクションを残していたことでも有名です。

品川区ホームページ『品川人物伝 益田孝』はこちら


モース博士(Edward Sylverster Morse もーすはかせ)1838-1925
 
本名、エドワード・シルヴェスター・モースは天保9年(1838年)アメリカ合衆国メイン州の港町、ポートランドに生まれました。
 モースは科学に興味をもった母親の影響を受け、子どものころから近くの海や川で貝類の収集をはじめ、ポートランド地区の貝のコレクションを作成しました。
 1877年6月17日、モースは2枚貝に似た腕足類(わんそくるい)の研究のため来日しました。横浜港に着いた翌々日、東京に向かう汽車が大森駅を出発した直後、線路脇の切通しに白い貝殻が露出しているのを見つけました。 これが大森貝塚の発見です。
 現在も大森貝塚周辺には二つの記念碑が建てられています。

品川区ホームページ『品川人物伝 モース博士』はこちら


本山荻舟(もとやまてきしゅう)1881-1958
 本山荻舟は本名を仲造(なかぞう)といい、1881年岡山県児島郡藤戸町天城に生まれました。幼い頃から文章を書くことが好きだった荻舟は、小説などを雑誌に投稿しています。
 新聞社に籍をおきつつ執筆活動を行い、1912年荻舟は報知新聞社に移り、社会部・連絡部の記者として劇評や料理記事を担当します。料理記事を担当したことから、荻舟は食への関心を深めていくようになります。
 食への関心が高じた荻舟は、1929年最高の食材を使用した家庭料理を安く提供する事を理想として、京橋河畔(かはん)に小料理屋「つたや」を開業。経営は常に赤字でしたが、記者としての給料をつぎ込み10年間続けました。
 1941年京橋の店も自宅も引き払い、家族とともに品川区南品川の天妙国寺境内に転居します。
 風景や人情を愛し、地元の人々とも交流を深め、東品川の寄木神社境内に建立された『江戸漁業根元之碑(えどぎょぎょうこんげんのひ)』の撰文は荻舟の手によるものです。
 戦後は料理研究に没頭、『飲食系図』、『荻舟食談』、『飲食日本史』などの著作を残しています。 遺族の手によって刊行された『飲食辞典』は地元猟師町の普段の食事だった「品川飯」や「品川汁」も取り上げられています。  

品川区ホームページ『品川人物伝 本山荻舟』はこちら

先頭に戻る

ヤ行


山内容堂(やまうち ようどう)1848-1872
 
山内容堂は、本名を豊信といい、1827年土佐高知藩山内家の分家、山内豊著(とよあきら)の長子として生まれました。1853年、ペリーが日本の開国を求め浦賀に来航した際には、外交意見書を幕府に提出し、国政へ積極的に関与していきます。
 隠居後には得意とする詩歌や愛する酒を楽しみ、自らを『鯨海酔候(げいかいすいこう)』と称しました。
 東大井4丁目の区立大井公園隣に残る墓所は品川区指定史跡となっています。

品川区ホームページ『品川人物伝 山内容堂』はこちら


由利公正(ゆりこうせい)1829-1909
 
由利公正は、1829年10月11日、福井藩士三岡義知の嫡男として、越前国福井城下に生まれました。
 若き日の公正は剣や槍、西洋砲術などの武術に熱中しますが、熊本藩士の横井小楠と出会い、 殖産興業政策の推進や、藩財政の整理などの藩財政改革の面で活躍していきます。
 明治政府の中で、太政官札(だじょうかんさつ)を発行するなど初期の財政政策を立案したほか、1871年7月には、東京府知事に就任、大火を教訓に東京銀座市街の道路を拡張する区画整備など首都行政にも力を注ぎました。明治政府の基本方針を明らかにした「五ヵ条の誓文」の草案を作成したことでも名を残しています。
 南品川5丁目の海晏寺は墓所が残っています。

品川区ホームページ『品川人物伝 由利公正』はこちら


吉川英治(よしかわえいじ)1892-1962

 吉川英治は1892年、吉川直広とイクの長男として、神奈川県久良岐郡中村根岸に生まれました。
  印刷所の少年工や横浜税務監督局の給仕等、様々な職を転々とし、1921年東京毎夕新聞社に入社。 1923年9月1日に発生した関東大震災で東京毎夕新聞社が廃墟となり解散となりますが、文学に専念することを決意し、小説家としてのスタートをきりました。
 1925年、作家としてスタートした英治は、講談社の新たな大衆文芸誌「キング」に吉川英治のペンネームで『剣難女難』の連載を開始します。この小説は大評判となり、「キング」の成功に寄与しました。
 その後、人気作家としての地位を確立し、原稿の依頼が殺到するようになり、『宮本武蔵』『新書太閤記』『三国志』など多くの作品が生み出されました。 
 1953年、子ども達の進学と通学のため、一家は吉野村から品川区北品川の御殿山に建つ洋館へ転居します。 また、その12月に「品川文化人クラブ」が結成されると会長に就任し、北品川の東海寺大山墓地内にある国指定史跡、賀茂真淵の墓の補修工事のため、募金活動などに協力しています。
 吉川英治が家族と共に暮らした御殿山の建物はほぼ当時のままの姿を残し、国の登録有形文化財となっています。

品川区ホームページ『品川人物伝 吉川英治(その1)』はこちら
品川区ホームページ『品川人物伝 吉川英治(その2)』はこちら

先頭に戻る


問い合わせ

品川図書館 電話:03-3471-4667 FAX:03-3740-4014

先頭に戻る

【全】フッターテキスト

サイト上に掲載された文書・画像等の各ファイルおよびその内容に関する権利は、品川区に帰属します。
本サイト上の文書・画像等の無断使用・転載を禁止します。本サイト上の文書や画像は予告なしに変更または掲載の中止をすることがあります。